2026年10月13日火曜日

癒される山肌を染める夕焼け

癒される山肌を染める夕焼け

 その日、わたしは山の見える小さな高台のベンチに腰をおろしていました。

仕事帰りに、なんとなく遠回りをして立ち寄っただけの場所です。特別な目的はありません。ただ、今日は少しだけ、まっすぐ家に帰りたくない気分でした。

ベンチの向こうには、なだらかな山並みがゆったりと連なっています。昼間は濃い緑に見えていた山肌が、夕方の光を受けて、少しずつ違う顔を見せはじめていました。

最初に変わったのは、いちばん高い稜線のあたりです。うっすらと金色の縁取りがついて、まるで山が静かに息をしているようでした。

そこから、光はゆっくりと斜面をくだってきます。

山肌の木々が、一本ずつ、やわらかなオレンジ色に染まっていく。谷のほうには青い影が残っていて、光と影の境目が、まるで水彩絵の具をにじませたように溶けあっています。

「きれいやなぁ」

思わず、ひとりごとがこぼれました。

隣のベンチでは、散歩中のおじいさんが、犬のリードを持ったまま同じ景色を眺めています。ことばを交わすわけではないのに、同じ夕焼けを見ているというだけで、なんだか少しだけ心がつながっているような気がしました。

空は、山の上から順番に表情を変えていきます。

淡い黄色、やさしい橙、ほんのり桃色を含んだ茜色。その色が山の斜面にそっと重なって、いつもは見過ごしてしまうような小さな起伏まで、くっきりと浮かびあがらせてくれます。

ふと、胸のあたりがふわっと軽くなっていることに気づきました。

今日の失敗も、うまく言えなかったひとことも、返しそびれたメッセージも。夕焼けを見ているあいだだけは、どれも遠くのほうへ置いておける気がしたのです。

風が少し冷たくなってきました。

どこかの木立のなかで、ヒヨドリが一声だけ鳴きます。それを合図にしたみたいに、山肌の色がゆっくりと深まっていきました。橙は赤みを帯び、赤は静かな紫へ。

やがて太陽が稜線の向こうに隠れても、空にはしばらく、あたたかな余韻が残っていました。

山は、もう黒い影になっています。でもその輪郭のまわりには、まだ薄いあかね色の線がぼんやりと光っていました。まるで「今日もおつかれさま」と、そっと言ってくれているようです。

おじいさんが犬を連れて、ゆっくりと立ちあがりました。軽く会釈をしてくれたので、わたしも小さく頭をさげます。

それだけのことなのに、胸の奥がじんわりあたたかくなりました。

夕焼けは、毎日どこかで必ず訪れます。

けれど、足を止めて、ちゃんと眺める日は、案外そんなに多くありません。忙しさのなかでは、空の色を見あげることさえ、忘れてしまうものです。

だからこそ、たまには遠回りをして、山肌を染める夕焼けに会いにいくのもいいなと思いました。

何かが解決したわけではないけれど、心の中の波が、ゆっくりと凪いでいく。そんな時間をくれる景色が、すぐそばにあるのです。

ベンチから立ちあがると、空にはもう一番星が瞬いていました。

「さて、帰ろか」

そうつぶやいて、わたしは高台をあとにしました。来たときより、足取りが少し軽くなっているのを感じながら。

もしあなたが、今日ちょっと疲れているなら。

どうか空を見あげてみてください。山が見えなくても、ビルの隙間の小さな夕焼けでも大丈夫。茜色の光は、きっとあなたの肩に、やさしく触れてくれるはずです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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