その日、わたしは山の見える小さな高台のベンチに腰をおろしていました。
仕事帰りに、なんとなく遠回りをして立ち寄っただけの場所です。特別な目的はありません。ただ、今日は少しだけ、まっすぐ家に帰りたくない気分でした。
ベンチの向こうには、なだらかな山並みがゆったりと連なっています。昼間は濃い緑に見えていた山肌が、夕方の光を受けて、少しずつ違う顔を見せはじめていました。
最初に変わったのは、いちばん高い稜線のあたりです。うっすらと金色の縁取りがついて、まるで山が静かに息をしているようでした。
そこから、光はゆっくりと斜面をくだってきます。
山肌の木々が、一本ずつ、やわらかなオレンジ色に染まっていく。谷のほうには青い影が残っていて、光と影の境目が、まるで水彩絵の具をにじませたように溶けあっています。
「きれいやなぁ」
思わず、ひとりごとがこぼれました。
隣のベンチでは、散歩中のおじいさんが、犬のリードを持ったまま同じ景色を眺めています。ことばを交わすわけではないのに、同じ夕焼けを見ているというだけで、なんだか少しだけ心がつながっているような気がしました。
空は、山の上から順番に表情を変えていきます。
淡い黄色、やさしい橙、ほんのり桃色を含んだ茜色。その色が山の斜面にそっと重なって、いつもは見過ごしてしまうような小さな起伏まで、くっきりと浮かびあがらせてくれます。
ふと、胸のあたりがふわっと軽くなっていることに気づきました。
今日の失敗も、うまく言えなかったひとことも、返しそびれたメッセージも。夕焼けを見ているあいだだけは、どれも遠くのほうへ置いておける気がしたのです。
風が少し冷たくなってきました。
どこかの木立のなかで、ヒヨドリが一声だけ鳴きます。それを合図にしたみたいに、山肌の色がゆっくりと深まっていきました。橙は赤みを帯び、赤は静かな紫へ。
やがて太陽が稜線の向こうに隠れても、空にはしばらく、あたたかな余韻が残っていました。
山は、もう黒い影になっています。でもその輪郭のまわりには、まだ薄いあかね色の線がぼんやりと光っていました。まるで「今日もおつかれさま」と、そっと言ってくれているようです。
おじいさんが犬を連れて、ゆっくりと立ちあがりました。軽く会釈をしてくれたので、わたしも小さく頭をさげます。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりあたたかくなりました。
夕焼けは、毎日どこかで必ず訪れます。
けれど、足を止めて、ちゃんと眺める日は、案外そんなに多くありません。忙しさのなかでは、空の色を見あげることさえ、忘れてしまうものです。
だからこそ、たまには遠回りをして、山肌を染める夕焼けに会いにいくのもいいなと思いました。
何かが解決したわけではないけれど、心の中の波が、ゆっくりと凪いでいく。そんな時間をくれる景色が、すぐそばにあるのです。
ベンチから立ちあがると、空にはもう一番星が瞬いていました。
「さて、帰ろか」
そうつぶやいて、わたしは高台をあとにしました。来たときより、足取りが少し軽くなっているのを感じながら。
もしあなたが、今日ちょっと疲れているなら。
どうか空を見あげてみてください。山が見えなくても、ビルの隙間の小さな夕焼けでも大丈夫。茜色の光は、きっとあなたの肩に、やさしく触れてくれるはずです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿