2026年10月10日土曜日

癒される猫の自動給水機が好きなマンチカンという猫

癒される猫の自動給水機が好きなマンチカンという猫

 そのマンチカンは、朝いちばんに水の音で目を覚ます。

窓辺にぽつんと置かれた、白くて丸い自動給水機。そこから、さらさらと細い水が流れている。耳をすませなければ聞こえないくらい小さな音だけれど、マンチカンの耳はちゃんと拾っている。短い足でとことこと近づいて、ふわふわのお腹を床にぺたりとつけて、水の流れる縁にそっと鼻先を寄せた。

名前は「ムギ」という。

飼い主の彩さんが、ムギを迎えて三か月ほど経った頃のことだった。ふつうのお皿に水を入れておいても、ムギはほとんど口をつけなかった。心配になってあれこれ調べるうちに、「猫は流れる水が好きなことがある」という話を知り、小さな自動給水機を買ってみた。

初めて電源を入れた夜のことを、彩さんはよく覚えている。

水がさらさらと流れはじめると、ムギは部屋の隅から、おそるおそる顔を出した。目をまんまるにして、しばらくじっと見つめて、それから一歩、また一歩。短い足でゆっくり近づいて、ちょん、と前足で水の流れに触れた。

びっくりしたように手を引っこめて、でも、すぐにまた触れる。

そのうちに、ぺろ、ぺろ、と小さな舌が動きはじめた。彩さんは息をひそめたまま、その背中を見ていた。夜の部屋に、水の流れる音と、ムギが水を飲む小さな音だけが重なっていた。

それからというもの、ムギの一日は、自動給水機のそばで回るようになった。

朝は、水を一口飲んでから、日だまりで伸びをする。昼は、ひとしきり遊んだあとに、ごくごくと喉を鳴らす。夕方、窓の外が茜色に染まる頃には、給水機の前に丸くなって、流れる水をただぼんやりと眺めている。

飲みたいわけではないらしい。ただ、そこにいたいのだ。

彩さんは、そんなムギの横にそっと腰を下ろすことがある。仕事で疲れた日。うまくいかなかった日。言葉にならないもやもやを抱えて帰ってきた夜。

ソファの端に座って、ムギと一緒に水の流れを見つめていると、不思議と胸のあたりがゆるんでいく。さらさら、さらさら。同じ音が、同じ調子で、変わらずに続いている。それだけのことが、こんなにも心をなだめてくれるなんて。

ムギは、彩さんの膝に前足をちょこんとのせて、ゆっくりとまばたきをした。猫のゆっくりしたまばたきは、安心している印なのだという。

「ここにいていいよ」と言われているみたいで、彩さんはいつも、少しだけ泣きそうになる。

ある雨の日のこと。

窓の外では細かな雨が降りつづいていて、部屋の中は、いつもより少し薄暗かった。ムギは給水機の前に座って、雨の音と水の音を、交互に聞いているようだった。耳がぴくりと動くたびに、小さな鈴の音がちりんと鳴る。

雨が降る外の世界と、水が流れる部屋の中。

どちらの音も、やさしかった。

彩さんは、あたたかいお茶を淹れて、ムギの隣にそっと置いた。湯気がゆらゆらと立ちのぼって、窓ガラスをほんのり曇らせる。ムギは、湯気をちらりと見て、またすぐに給水機へ視線を戻した。

どうやら、湯気よりも水の流れのほうが、今日は気になるらしい。

「ムギは本当にこれが好きだね」

そう声をかけると、ムギは「にゃ」と短く返事をした。小さな声だった。けれど、その一声が、部屋の空気をふわりと明るくした。

水を替える日、彩さんはいつも少しだけ丁寧になる。

フィルターを洗って、タンクをすすいで、新しい水をたっぷり注ぐ。ムギは少し離れたところから、その様子をじっと見守っている。作業が終わって、水がふたたび流れはじめると、いそいそと駆けてきて、さっそく一口。

「おかえり」と言っているみたいに、ふにゃりと目を細める。

その顔を見るたびに、彩さんは思う。

小さな毎日の中の、小さな幸せ。それはきっと、大きな出来事ではなくて、こんなふうに、ただそこにある水の音や、猫のまばたきや、窓辺に落ちる光のことなのだと。

夜になると、部屋の明かりを落として、小さなランプだけをつける。

ムギは、給水機のそばの定位置で、くるりと体を丸める。短い足を前にそろえて、しっぽをふんわり体に巻きつけて。耳だけが、水の音のほうへ向いている。

さらさら、さらさら。

その音を子守唄みたいに聞きながら、ムギのまぶたが、少しずつ、少しずつ、下りていく。

彩さんも、同じ音を聞きながら、本のページをそっと閉じた。

今日も、いい一日だった。

特別なことは何もなかったけれど、水は流れていて、猫はそばにいて、部屋はあたたかかった。それだけで、十分だった。

おやすみ、ムギ。

水の音は、ひと晩じゅう、やさしく続いていく。

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