日曜の午後、窓を少しだけ開けた。
網戸の向こうから、やわらかな風が入ってくる。夏の名残をほんの少し含んだ、でももう秋のほうへ傾いている風だ。カーテンがゆっくりふくらんで、またしぼむ。それだけの動きなのに、部屋の空気がひとつ深く息をしたように感じた。
枕元には、昨日買ったばかりのアイマスクがある。
薄い灰色の、絹のような手ざわりのもの。パッケージには「やさしく光をさえぎります」と小さく書いてあった。やさしく、という言葉に惹かれて、気づけばレジに持っていっていた。
横になって、そっとかける。
ふっと、世界の音量が下がった。
まぶたの裏は、真っ暗というより、深い藍色に近かった。さっきまで目に入っていた天井の白さも、机の上に積んだままの郵便物も、スマホの小さな通知ランプも、すべてが一枚の布の向こうへ遠のいていく。
見えなくなると、ほかの感覚が静かに立ちあがってくる。
遠くを走る電車の音。
どこかの家の風鈴が、ちりん、と一度だけ鳴る音。
そして、頬をなでていく風の温度。
風はいつも、そこにあったのだと思う。
ただ、目を開けているあいだは、見るものが多すぎて気づけなかった。アイマスクは何かを足してくれるわけではない。余計なものを、そっと脇へ置いてくれるだけだ。
額のあたりを風が通りすぎていく。
前髪がかすかに揺れる。
その揺れを、くすぐったいな、と思いながら、ぼんやりと受け止める。
考えごとが、ひとつ浮かんできた。
来週の仕事のこと。返していないメッセージのこと。なんとなく気にかかっている、小さな心配ごと。
でも、それらは浮かんできたまま、風に流されるみたいに、ゆっくり遠ざかっていった。つかまえようとしなくていい。ただ通りすぎるのを見送っていればいい。藍色の暗がりのなかでは、不思議とそう思えた。
呼吸が、少しずつ長くなる。
吸って、吐いて。
カーテンがふくらんで、しぼむ。
私の胸も、同じリズムで上がって、下がる。
いつからだろう。
一日をちゃんと終わらせないまま、次の一日に入っていくようになったのは。
今日は、ここで一度、ぜんぶ終わりにしていい。
そんなふうに許されている気がした。
風が、また吹いた。
さっきより少しだけ冷たくて、やさしい風だった。
アイマスクの内側で、まぶたの力が抜けていく。
眠るつもりはなかったのに、意識の端が、とろりとほどけはじめる。
遠くで、風鈴がもう一度、ちりん、と鳴った。
その音を最後に、私は、藍色のやわらかな暗がりのなかへ、静かに沈んでいった。
目を覚ますと、部屋はすこし橙色に染まっていた。
アイマスクをはずすと、夕方の光がまぶしくて、思わず目を細める。けれど、その光さえ、どこかやさしく感じられた。
窓の外では、変わらず風が吹いている。
特別なことは何もしていない。
ただ、光をさえぎって、風を感じて、少しのあいだ目を閉じていただけ。
それでも、からだの奥のほうが、ふわりと軽くなっていた。
カーテンがまた、ゆっくりふくらむ。
私はアイマスクを枕元に置いて、もう少しだけ、その風のなかにいることにした。
忙しい毎日のなかで、「何もしない時間」はなかなか作れません。でも、目を閉じて風の音に耳をすますだけの数分が、思っているよりずっと、心を休ませてくれることがあります。
今夜はスマホを少し遠くに置いて、窓を細く開けて、目を閉じてみてください。風はきっと、いつものようにそこにいてくれます。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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