その日は、朝からなんとなく気持ちが重たかった。
目覚ましを止めて、スマホを見て、ため息をひとつ。顔を洗って、急いでパンをかじって、いつもと同じ時間にいつもと同じ道へ出る。
特別なことは何もない、ごく普通の朝だった。
玄関の鍵を閉めて、ふと顔を上げた。
そこに、空があった。
いつもそこにあったはずなのに、ちゃんと見るのは、いつ以来だろう。雲ひとつない、まっすぐな青。絵の具を水でといたような、やわらかくて、どこまでも澄んだ青だった。
思わず立ち止まった。
ほんの数秒のことなのに、肩の力がすっと抜けていくのがわかった。胸の奥でぎゅっと固まっていたものが、ゆっくりとほどけていく。
「ああ、今日、こんなにいい天気だったんだ」
声に出したわけではないけれど、心のなかでそうつぶやいた。
考えてみれば、最近は下ばかり見て歩いていた。足元の段差、スマホの画面、次の予定、終わっていない仕事。目の前のことで精いっぱいで、空の色を気にする余裕なんてなかった。
でも空は、ずっとそこにいてくれたのだと思う。
私が見ていない間も、疲れて俯いていた間も、変わらずに広がって、静かに青く澄んでいた。
駅までの道を、いつもより少しだけゆっくり歩いた。
街路樹の葉が、風に揺れてさらさらと鳴っている。どこかの家の窓から、洗濯物のやわらかな匂いがする。自転車のベルの音、遠くの犬の声、パン屋さんの前を通ったときのあたたかい香り。
空を見上げただけで、世界の音や匂いまで、少しずつ戻ってきたような気がした。
青い空というのは、不思議だ。
何かを解決してくれるわけではない。悩みが消えるわけでも、仕事が減るわけでもない。それでも、見上げた瞬間だけは、「まあ、なんとかなるかな」と思わせてくれる。
きっと空は、がんばれとも、休めとも言わない。ただそこにあって、見上げた人を、そのまま受け止めてくれるのだ。
電車を待つホームで、もう一度空を見た。
屋根の端から、青がどこまでも続いている。薄い雲がひとすじ、ゆっくりと流れていく。その速さが、今の私にはちょうどよかった。
急がなくていい。
頑張りすぎなくていい。
たまには立ち止まって、深呼吸をしてもいい。
そんなことを、空の青さが教えてくれた気がした。
一日は、いつもと同じように始まって、いつもと同じように過ぎていった。けれど私のなかには、あの朝見上げた青が、ずっと小さな灯りのように残っていた。
もし今、あなたが少し疲れているなら。
ほんの十秒だけ、顔を上げてみてほしい。
窓の外でも、ベランダでも、帰り道でもいい。
そこにはきっと、あなたが気づくのを待っていた、やさしい青空が広がっているはずだから。
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