夜の帳が降りるころ、わたしはいつも同じことをします。
窓のカーテンを閉めて、部屋の明かりをひとつだけ落とす。それから、机の端に置いた小さな茶色い瓶に手を伸ばすのです。
日が沈んだあとの時間は、不思議と音が少なくなります。昼のあいだ、あれほど騒がしかった街が、少しずつ声を低くしていく。遠くを走る電車の音も、隣の家の生活音も、まるで綿でくるまれたみたいにやわらかい。そのなかで、わたしだけが、一日の持ち物をまだ全部抱えたまま立っているような気がする夜があります。
頭の中では、言い忘れたことや、やり残したことが、ゆっくり回っている。そんな日の終わりに、アロマオイルの瓶の蓋をそっと開けます。
ぽん、と小さな音。
その瞬間、空気が変わります。
ラベンダーの落ち着いた香りが、細い糸のようにふわりとほどけて、部屋のすみまで届いていく。ほんの一滴、二滴。ディフューザーの水面に落ちたオイルが、まるいかたちを作って、すぐに溶けていきます。その小さな光景を眺めているだけで、肩にのっていたものが、少しだけ軽くなる。
スイッチを入れると、細い湯気が立ちのぼります。
暗い部屋のなかで、白い湯気がゆらゆらと揺れながら、天井のほうへ消えていく。電気の明かりは落としてあるので、窓の外のわずかな夕闇の名残りが、その湯気をほんのり青く染めています。
わたしは床にクッションを置いて、そこに座ります。
深く息を吸うと、鼻の奥まで香りが入ってきます。ゆっくり吐く。もう一度吸う。
不思議ですよね。香りというのは、思い出よりも先に、気持ちに届くのだそうです。誰かに「大丈夫だよ」と言ってもらうより前に、体のほうが先に「大丈夫なのかもしれない」と思い始める。そんな感じがします。
アロマオイルの瓶は、いくつか持っています。
眠る前に選ぶのは、ラベンダーやカモミール。ほんのり甘くて、草原の風をそのまま閉じ込めたような香り。少し疲れが残っている日は、オレンジスイートを選びます。やわらかい柑橘の香りは、夜なのにほんのり日なたの匂いがして、心にぽっと小さな灯りがともるのです。
雨の日には、ヒノキやサンダルウッド。木の香りは、静かな森の中にいるみたいな気持ちにさせてくれます。
その日の気分で選ぶ時間も、じつは好きな時間のひとつです。
「今日はどの香りがいいかな」
そんなふうに自分に問いかけるのは、一日のなかで、いちばんやさしい質問かもしれません。仕事でも、家のことでも、誰かのためにたくさん選んだり決めたりしてきた一日の終わりに、自分のためだけに選ぶ。たった一滴ぶんの贅沢です。
湯気は、ゆっくりと部屋を満たしていきます。
窓の外では、群青色だった空が、だんだん夜の色に沈んでいく。街の灯りがぽつぽつとともって、遠くの窓にも、それぞれの夜が始まっています。きっとあの灯りの下にも、それぞれの一日の終わりがあって、それぞれの小さな儀式があるのでしょう。
お茶を淹れる人。
本を開く人。
ただぼんやりと天井を見上げる人。
そのなかのひとりが、香りに包まれて静かに目を閉じているなんて、誰も知らないけれど、それでいいのだと思います。
しばらくすると、気づきます。
さっきまで頭のなかを回っていたあれこれが、いつのまにか、遠くに座っていることに。消えたわけではないけれど、手の届かない場所にそっと置かれたみたいに、静かになっている。
それは、香りがくれた小さな距離です。
明日のことは、明日のわたしに任せればいい。
今夜のわたしは、ただここに座って、息をしているだけでいい。
そう思えた瞬間、胸のあたりがじんわりとあたたかくなりました。
ディフューザーの湯気が細くなって、やがて水がなくなるころ、わたしはゆっくりと立ち上がります。部屋にはまだ、ほのかな香りが残っています。眠るまでのあいだ、その余韻がずっとそばにいてくれる。
布団に入って、目を閉じる。
まぶたの裏に、ラベンダー畑の風景が浮かびます。
行ったことのない場所なのに、どこか懐かしい。夕暮れの紫の空の下、風に揺れる花の波。その波に身をまかせるように、呼吸がだんだんゆっくりになっていく。
日が沈んだあとのアロマオイルは、一日のおわりに、自分をそっと抱きしめてくれる小さな魔法のようなものです。
大きな変化は起こらなくても、特別な何かがなくても、ただ一滴の香りが、今日という日を「よく頑張ったね」と静かにしめくくってくれる。
もし今夜、少し疲れているあなたがいたなら。
部屋の明かりをひとつ落として、好きな香りを一滴だけ、そっと垂らしてみてください。
深く息を吸って、ゆっくり吐いて。
それだけで、夜はきっと、やさしくなります。
おやすみなさい。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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