夜明け前の山道は、空気がきんと冷えていました。
車を停めて外に出ると、吐く息がふわりと白くなります。足もとの落ち葉を踏むたび、かさ、こそ、と乾いた音が静けさの中に溶けていきました。
細い遊歩道を抜けた先に、その湖はありました。
標高の高い場所にひっそりと抱かれた、小さな湖です。水面は鏡のように澄んでいて、空の色をそのまま映しています。まだ朝日は昇っていません。東の空が薄い藍色から、ほんのり桃色へと変わっていく途中でした。
近くの岩に腰を下ろして、ただ湖を眺めることにしました。
何かをするわけでもなく、何かを考えるわけでもなく。ふだんなら「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」と忙しく動いている頭の中が、ここでは不思議なくらい静かです。
やがて、山の稜線の向こうから光がこぼれ始めました。
最初に染まったのは、対岸の木々の梢です。赤や橙、黄色に色づいた葉が、朝の光を受けて一枚ずつ灯りをともすように輝いていきます。その光景が、そっくりそのまま湖面に映り込んでいました。
山の上にも、水の中にも、もうひとつの秋がある。
風がふっと吹くと、水面に細かな波紋が広がりました。逆さに映った紅葉がゆらゆらと揺れて、まるで水の底で絵の具がゆっくり溶けていくようです。思わず息をひそめて見入ってしまいました。
どこかで鳥が一声、澄んだ声で鳴きました。
その声はまっすぐ空へ昇って、山にこだまして、静かに消えていきます。そのあとに残るのは、さっきよりも深い静けさでした。
ポットに入れてきた温かいお茶を、ゆっくりと口に含みます。冷えた指先がじんわりとほどけて、体の奥まで温かさが染みていきました。湯気の向こうに、朝日に照らされた湖が金色にきらめいています。
そういえば、いつからでしょう。
こんなふうに、何もしない時間をぜいたくだと感じなくなっていたのは。
スマホの通知も、時間に追われる予定も、ここには届きません。あるのは、澄んだ水と、色づいた木々と、頬をなでる冷たい風だけ。それだけで、心の中の絡まっていた糸が、少しずつほぐれていく気がしました。
湖のほとりには、小さな白い花がぽつぽつと残っていました。夏の名残のように、霜にも負けず、凛と咲いています。その隣では、真っ赤に染まった葉が一枚、水面にそっと舞い降りました。
ぷかり、と浮かんだ葉は、小さな舟のようにゆらゆらと沖へ流れていきます。
その行方を目で追っているうちに、時間の感覚がふわりとゆるんでいきました。
太陽が少しずつ高くなり、湖面の色も変わっていきます。桃色から金色へ、金色から澄んだ青へ。ひとつとして同じ瞬間はなく、けれどどの瞬間も、ただ穏やかで美しい。
高山の秋の湖は、何も語りません。
けれど、そこにいるだけで、「急がなくていいよ」と言ってもらえているような気がしました。
帰り道、もう一度だけ振り返りました。
朝の光に包まれた湖は、来たときよりもずっとやさしい表情をしていました。胸の中には、澄んだ空気と静けさが、小さなお守りのように残っています。
忙しい毎日に疲れたとき、心がざわざわしてしまうとき。
あの湖の水面に映る紅葉を思い出せば、きっとまた、深呼吸ができる気がします。
秋の高山にひっそりと息づく湖は、ただそこにあるだけで、心をそっと休ませてくれる場所でした。
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