2026年10月11日日曜日

癒される夕焼けと黒猫

癒される夕焼けと黒猫

  日曜の夕方、街はいつもより静かだった。

 仕事の疲れを引きずったまま、わたしは川沿いの道をゆっくり歩いていた。急ぐ理由はどこにもない。そう思うだけで、肩の力が少しだけ抜けていく。

 ふと空を見上げると、西の端がじんわりと茜色に染まっていた。

 橙から朱へ、朱から薄紫へ。絵の具をそっと溶かしたような色が、雲の縁をなぞりながら広がっていく。川面にもその色が落ちて、水の流れに合わせてゆらゆらと揺れていた。

 土手の階段をのぼったところに、小さな石のベンチがある。わたしはそこに腰をおろした。

 そのとき、足もとで何かが動いた気がして、目をやった。

 黒猫だった。

 夕闇に溶けてしまいそうな、つややかな毛並み。まるで夜の欠片がひとつ、地上に落ちてきたみたいだった。猫はわたしの少し先で立ち止まり、琥珀色の目でこちらをじっと見ている。

 「こんにちは」

 小さく声をかけてみる。猫は返事をするでもなく、ただゆっくりとまばたきをした。

 猫のまばたきは「安心しているよ」の合図だと、昔どこかで聞いたことがある。本当かどうかはわからない。けれど、その静かなまばたきを見ていると、そう信じたくなった。

 しばらくすると、黒猫はとことこと歩いてきて、ベンチの端にひらりと飛び乗った。わたしとのあいだには、ほどよい距離。近すぎず、遠すぎず。

 猫は夕焼けのほうを向いて、すっと背筋を伸ばして座った。

 わたしも同じ方向を見る。

 ふたりで並んで、同じ空を眺めていた。

 風が川面をなでて、土手の草がさわさわと鳴る。遠くで鳴く烏の声も、どこかの家から漂ってくる夕ごはんの匂いも、今日はなんだかやさしい。

 黒猫のしっぽが、ゆっくりと左右に揺れている。その先端に、夕日の光がほんのり金色にのっていた。

 思えば、こんなふうに空をまっすぐ見上げたのは、いつ以来だろう。

 毎日、足もとばかり見て歩いていた。画面の中の文字ばかり追いかけていた。空はずっとそこにあったのに、わたしが見ていなかっただけなのだ。

 猫はそんなことを気にもしないで、ただそこにいる。

 夕焼けが濃くなり、空の色が少しずつ藍へと移りはじめた。

 やがて黒猫は、ふわあ、と小さなあくびをした。ぴんと立った耳が、夕空の色を透かしてほんのり赤く見える。

 それから静かに立ち上がると、ベンチからとん、と降りて、振り返ることもなく歩きだした。夕闇のほうへ、ゆっくりと。

 黒い背中が、だんだん景色に溶けていく。

 見送りながら、わたしは思った。

 別れの挨拶がなくても、いい時間だった。名前も知らない猫と、言葉も交わさず、ただ同じ夕焼けを見た。それだけで、今日一日がちゃんと報われた気がした。

 空には一番星が顔を出していた。

 わたしはベンチから立ち上がり、ひとつ深呼吸をする。夕方の空気は、ほんの少しだけ甘い匂いがした。

 帰り道は、来たときより足取りが軽かった。

 明日もきっと、忙しい一日になるだろう。それでも、この夕焼けと、黒猫のまばたきを思い出せば、少しだけやさしい気持ちでいられそうだ。

 あなたの今日の空は、どんな色をしていましたか。

 もし疲れているなら、ほんの数分だけ、顔を上げてみてください。

 そこにはきっと、静かで、あたたかな夕焼けが待っています。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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