日曜の夕方、街はいつもより静かだった。
仕事の疲れを引きずったまま、わたしは川沿いの道をゆっくり歩いていた。急ぐ理由はどこにもない。そう思うだけで、肩の力が少しだけ抜けていく。
ふと空を見上げると、西の端がじんわりと茜色に染まっていた。
橙から朱へ、朱から薄紫へ。絵の具をそっと溶かしたような色が、雲の縁をなぞりながら広がっていく。川面にもその色が落ちて、水の流れに合わせてゆらゆらと揺れていた。
土手の階段をのぼったところに、小さな石のベンチがある。わたしはそこに腰をおろした。
そのとき、足もとで何かが動いた気がして、目をやった。
黒猫だった。
夕闇に溶けてしまいそうな、つややかな毛並み。まるで夜の欠片がひとつ、地上に落ちてきたみたいだった。猫はわたしの少し先で立ち止まり、琥珀色の目でこちらをじっと見ている。
「こんにちは」
小さく声をかけてみる。猫は返事をするでもなく、ただゆっくりとまばたきをした。
猫のまばたきは「安心しているよ」の合図だと、昔どこかで聞いたことがある。本当かどうかはわからない。けれど、その静かなまばたきを見ていると、そう信じたくなった。
しばらくすると、黒猫はとことこと歩いてきて、ベンチの端にひらりと飛び乗った。わたしとのあいだには、ほどよい距離。近すぎず、遠すぎず。
猫は夕焼けのほうを向いて、すっと背筋を伸ばして座った。
わたしも同じ方向を見る。
ふたりで並んで、同じ空を眺めていた。
風が川面をなでて、土手の草がさわさわと鳴る。遠くで鳴く烏の声も、どこかの家から漂ってくる夕ごはんの匂いも、今日はなんだかやさしい。
黒猫のしっぽが、ゆっくりと左右に揺れている。その先端に、夕日の光がほんのり金色にのっていた。
思えば、こんなふうに空をまっすぐ見上げたのは、いつ以来だろう。
毎日、足もとばかり見て歩いていた。画面の中の文字ばかり追いかけていた。空はずっとそこにあったのに、わたしが見ていなかっただけなのだ。
猫はそんなことを気にもしないで、ただそこにいる。
夕焼けが濃くなり、空の色が少しずつ藍へと移りはじめた。
やがて黒猫は、ふわあ、と小さなあくびをした。ぴんと立った耳が、夕空の色を透かしてほんのり赤く見える。
それから静かに立ち上がると、ベンチからとん、と降りて、振り返ることもなく歩きだした。夕闇のほうへ、ゆっくりと。
黒い背中が、だんだん景色に溶けていく。
見送りながら、わたしは思った。
別れの挨拶がなくても、いい時間だった。名前も知らない猫と、言葉も交わさず、ただ同じ夕焼けを見た。それだけで、今日一日がちゃんと報われた気がした。
空には一番星が顔を出していた。
わたしはベンチから立ち上がり、ひとつ深呼吸をする。夕方の空気は、ほんの少しだけ甘い匂いがした。
帰り道は、来たときより足取りが軽かった。
明日もきっと、忙しい一日になるだろう。それでも、この夕焼けと、黒猫のまばたきを思い出せば、少しだけやさしい気持ちでいられそうだ。
あなたの今日の空は、どんな色をしていましたか。
もし疲れているなら、ほんの数分だけ、顔を上げてみてください。
そこにはきっと、静かで、あたたかな夕焼けが待っています。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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