夜の空気が、ふっと澄んできました。
昼間はまだ少し暑さの名残があったのに、日が落ちると、肌に触れる風がひんやりと細く変わります。「ああ、秋だな」と思うのは、いつもこんな夜の入り口です。
今夜は、静かな湖のほとりまで足を運んでみました。
舗道の街灯がまばらになり、木々の影が濃くなるにつれて、世界の音が少しずつ小さくなっていきます。聞こえるのは、枯れ始めた草を揺らす風の音と、遠くでかすかに鳴く虫の声だけ。
湖のそばに着いたとき、思わず足が止まりました。
空の高いところに、まるい月がひとつ。
雲の薄いベールをまとって、やわらかな白い光を、そっと辺りに降らせています。眩しいというより、ふんわりと包み込むような光です。
その光は、湖面にも届いていました。
風のない夜の湖は、まるで一枚の黒い鏡のようです。そこに月の光が落ちて、細く長い光の道ができています。ときどき、どこかで小さな魚が跳ねたのでしょうか。丸い波紋がゆっくり広がって、光の道がきらきらと細かく砕けては、またひとつに戻っていきます。
まるで、湖が静かに呼吸をしているみたいでした。
近くのベンチに腰を下ろして、しばらく何も考えずに湖を眺めていました。
不思議なものですね。
日々のなかでは、ついあれこれと頭を巡らせてしまいます。やらなければいけないこと、気になっていること、うまくいかなかった小さな出来事。どれも悪いものではないのに、積み重なると、心がすこし重たくなります。
けれど、こうして月明かりの下で湖面のきらめきを見ていると、そんな思いがひとつずつ、ほどけていくのを感じました。
月は、ただそこにあるだけです。
湖も、ただ静かにそこにあるだけです。
誰かを急かすこともなく、何かを求めることもなく、ただ光を受けて、ただ光を映している。その姿を見ていると、「自分も、ただここにいるだけでいいのかもしれない」と思えてきます。
秋の夜は、そんなふうに、人をやさしく許してくれる時間なのかもしれません。
ふと見上げると、月のまわりに、小さな星がいくつか瞬いていました。
月の明るさに少し遠慮するように、控えめに、けれどたしかにそこにいる星たち。湖面にも、その小さな光がほんのりと映り込んでいます。
空にも、水の中にも、静かな光。
ポットに入れてきた温かいお茶を、ひと口ゆっくりと飲みました。
湯気が白くのぼって、月明かりのなかに溶けていきます。手のひらにじんわり伝わるぬくもりが、夜の冷たさとちょうどいい具合に混ざり合って、胸の奥まで、静かに落ち着いていきました。
どれくらいの時間が過ぎたでしょうか。
気がつくと、肩の力がすっかり抜けていました。呼吸もゆったりして、まぶたが少し重たくなるほどの安らぎです。
帰り道、もう一度だけ振り返って湖を見ました。
月の光は、変わらず湖面にきらめいていました。
あの光の道は、きっと誰にでも、そっと続いているのだと思います。慌ただしい毎日のなかで疲れてしまったとき、ふと夜空を見上げれば、そこに静かな月がいてくれる。それだけで、心はまた少し、やわらかさを取り戻せる気がします。
もし今夜、ほんの少しだけ時間があるなら、窓を開けて空を探してみてください。
雲の切れ間に、やさしい月が見えるかもしれません。
その光が、あなたの一日の終わりを、そっと照らしてくれますように。
秋の夜の静けさと、月明かりと、湖面のきらめきが、あなたの心にも、穏やかな安らぎを運んでくれますように。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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