夜の十時を過ぎると、この部屋の音はふっと遠くなる。
冷蔵庫の低いうなり。壁の向こうで誰かが閉めたドアの音。さっきまで耳の奥で鳴っていた一日のざわめきが、ひとつずつ静かにほどけていく。
私は部屋の電気を消して、枕元の小さなナイトライトだけをつけた。
やわらかなオレンジ色の光が、ベッドのまわりだけを丸く照らす。本棚の背表紙も、脱ぎっぱなしのカーディガンも、その光の中ではなんだか少し優しい顔をしている。
カーテンを少しだけ開けておいたのは、今夜が月のきれいな夜だと、帰り道に気づいたからだ。
窓の向こうには、白くて静かな月が浮かんでいた。
満月ではない。少しだけ欠けた、まあるくなりきれない月。でも、その欠けたところがかえってよかった。ぜんぶが揃っていなくても、夜空にはちゃんと光がある。そんなことを、月はなにも言わずに教えてくれる。
ベッドに腰かけて、膝にブランケットをかける。
窓から差しこむ月の光は、青みがかった細い帯になって床に伸びていた。ナイトライトの橙色と、月の白い光。ふたつの明かりが部屋の真ん中あたりで、そっと重なっている。
あたたかい光と、冷たくて澄んだ光。
どちらかだけだったら、きっとこんなに落ち着かなかったと思う。ナイトライトだけなら、ただの小さな部屋。月だけなら、少し広すぎる夜。ふたつがあるから、今夜はちょうどいい。
今日は、うまくいかないことがいくつかあった。
返事が遅れてしまったメッセージ。言い方が少しきつくなってしまった一言。気づけば、考えても仕方のないことを何度も頭の中で巻き戻していた。
でも、月を見ていると、不思議と力が抜けてくる。
月はいつも、同じ場所から同じように見下ろしているわけではない。満ちたり欠けたり、雲に隠れたり、また顔を出したり。それでも毎晩ちゃんと夜の空にいる。うまくいかない日があっても、それはそれで、ひとつの形なのかもしれない。
私はナイトライトのほうに手を伸ばして、光の輪の中に指先をかざしてみた。
指の影が、シーツの上にぼんやりと映る。小さな光は、小さなぶんだけ、まっすぐに私のそばにいてくれる。
大きな明かりじゃなくていい。部屋じゅうを昼間みたいにしなくていい。眠る前の私には、この小さな灯りくらいがちょうどいい。
しばらくすると、窓の外を薄い雲がゆっくりと横切っていった。
月がふわりとにじんで、まるで夜空に溶けたみたいにやわらかくなる。部屋に差しこむ光も、ほんのり丸みを帯びた。雲が通りすぎるたびに、月は少しだけ表情を変える。
その様子を眺めているだけで、時間がゆっくり流れていく。
何かをしなくちゃ、という気持ちが、いつのまにかどこかへ行っていた。
スマホも、明日の予定も、今は枕の向こう側に置いておこう。ただ、月とナイトライトの光の中にいる。それだけで、今日はもう十分な気がした。
まぶたが少しずつ重くなってくる。
ブランケットのあたたかさ。遠くを走る電車のかすかな音。窓の外で、変わらずに静かに光っている月。
私は横になって、もう一度だけ窓のほうを見た。
橙色の小さな灯りと、白い月の光。ふたつの明かりに見守られながら、ゆっくりと目を閉じる。
おやすみなさい。
今夜は、やさしい夜です。
夜に眠る前、ほんの少しだけ部屋の明かりを落として、窓の外の月を探してみる。それだけで、一日の終わり方が少し変わる気がします。みなさんの夜にも、やさしい光がありますように。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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