夕方の五時を少し過ぎたころ、部屋の窓から、やわらかな橙色の光が差しこんできます。
カーテンの隙間からのびた光は、フローリングの上に細長い道をつくっていました。その道のいちばん奥、ちょうど光がたまる場所に、黒猫のクロはいます。
艶のある黒い毛並みは、夕日を浴びると、ほんのり茶色く透けて見えました。
クロの前には、最近この家にやってきた小さな輪っかのような運動グッズが置かれています。くるくる転がる球が入った、丸いレールのおもちゃです。
「……」
クロは、じっとそれを見つめます。金色の瞳が、すうっと細くなりました。
そして、ぽん、と前足を出します。
球がからからと音を立てて、レールの上を走りました。クロの耳がぴくりと動きます。もうひとつ、ぽん。からから、からから。
最初は、おそるおそるでした。それがだんだんと勢いを増し、気がつけばクロの体は低く沈み、おしりがふりふりと左右に揺れています。
猫が本気になる前の、あの小さなダンスです。
次の瞬間、クロはしなやかに跳ねました。
球を追いかけて右へ、左へ。床を蹴る肉球の音が、とん、とん、と静かな部屋に響きます。ときどき勢いあまって、ちょっとだけ滑るのもご愛敬でした。
運動不足、と言われてしまったのは、先週のことです。
動物病院の帰り道、飼い主さんはキャリーバッグをのぞきこんで、そっと笑いました。
「クロ、ちょっとだけ、ふっくらしてきたね」
それからというもの、部屋のすみには、少しずつ「運動のための道具」が増えていきました。くぐるトンネル、ひらひら揺れる羽のおもちゃ、そして、いまクロが夢中になっている、このレールです。
クロはもともと、窓辺で日向ぼっこをするのがいちばんの仕事でした。そんな猫にとって、突然現れた運動グッズは、少し大げさな来客のようなものだったのでしょう。
けれど、案外すぐに仲良くなりました。
トンネルをくぐるときは、まず頭だけをそっと出して、あたりの様子をうかがいます。誰も見ていないふりをして、そのくせ、しっぽだけは自信たっぷりにぴんと立てて。
羽のおもちゃがひらりと舞えば、「しかたないな」という顔で立ちあがり、結局いちばん高く跳んでしまうのです。
さて、夕日はゆっくりと傾いていきます。
部屋の壁に映る影も、少しずつ長くなりました。クロの影は、壁の上で、ほんものよりずっと大きな黒猫になって、ぴょんぴょんと跳ねています。
その影を、クロはときどき横目で見ました。
「あれは、だれだ」
そんなことを言いたげな顔です。でもすぐに、球の音に気をとられて、また走りだしてしまいます。
からから、とん、とん。
しばらくして、クロの動きがゆっくりになりました。
肩で息をするように、お腹が上下しています。舌をちょこんと出したまま、クロはその場にぺたんと座りこみました。
「ふう」
そんな声が聞こえそうでした。
運動のあとの猫は、どこか誇らしげです。「やりきりました」という顔で、前足をなめて、顔をくるりとぬぐいます。
そのとき、台所のほうから、とんとんと包丁の音が聞こえてきました。
お米の炊ける、やさしい匂い。窓の向こうでは、どこかの家の夕ごはんの気配が、ゆるやかに町へ広がっていきます。
クロは、運動グッズの横にごろんと寝転びました。
夕日の光がちょうど背中にあたって、黒い毛並みが、あたたかく光ります。ひとつ、大きなあくび。まぶたが、少しずつ重くなっていきます。
頑張ったあとの、ちいさな休憩です。
運動不足を解消するのは、きっと、とても大切なことなのでしょう。けれど、クロを見ていると思うのです。
大切なのは、きっと、数字や目標ではありません。
夕方の光のなかで、思いきり体を動かして、そのあとにぽかぽかの床で眠る。そんなふうに、その日をちゃんと「味わう」ことなのかもしれません。
橙色の光が、少しずつ薄い紫へと変わっていきます。
クロのおなかが、ゆっくり、ゆっくりと上下していました。レールの上では、最後に転がった球が、こつんと小さな音を立てて止まりました。
静かな部屋に、猫の寝息と、夕ごはんの匂いだけが、そっと残ります。
そんな、ある日の夕方のことでした。
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