カーテンのすき間から、細い光が一本だけ部屋に差し込んでいた。
目が覚めたのは、アラームが鳴るより少し前のこと。窓の外では鳥が短く鳴いていて、空気はまだ夜の冷たさを少しだけ残している。布団の中でぼんやりと天井を見つめていると、その光がゆっくりと床を渡り、ソファの上にたどり着いた。
ソファの端には、昨日からそこにいるクッションが置いてある。
丸い顔をした、猫のクッション。やわらかな生地に、ちょこんと立った二つの耳。糸で刺繍された目は、いつも少しだけ眠たそうに細められている。口元はほんのり笑っているようにも、何か言いたげにも見える。
買ったのは、ほんの気まぐれだった。仕事帰りに立ち寄った雑貨店の棚で、たくさん並んだクッションの中から、ふとこの猫と目が合ってしまったのだ。大きな買い物でもないのに、レジに向かう足取りが少し軽かったことを覚えている。
布団を抜け出し、冷えた床を踏んで、ソファの前に立つ。
朝の光は、ちょうど猫のクッションの背中あたりを照らしていた。生地の細かな織り目が光を拾って、うっすらと金色に縁取られている。まるで本物の猫が、日向でうとうとしているみたいだ。
そっと手を伸ばして、抱き上げてみる。
ふわり、と思っていたより軽くて、けれど腕の中に収まると、ちゃんとあたたかい。それは光を浴びていたぶんのぬくもりだった。顔をうずめると、洗いたての布のにおいに混じって、ほんのりお日さまの香りがした。
「おはよう」
誰に言うともなく、小さく声に出してみる。もちろん返事はない。けれど、猫の目は変わらず穏やかに細められていて、それだけで「うん、おはよう」と言ってもらえた気がした。
一人暮らしの朝は静かだ。静かなのは嫌いではないけれど、ときどき、その静けさが少しだけ広すぎると感じる日もある。
そんな朝に、腕の中の小さなぬくもりは、思いのほか心強かった。
ソファに腰を下ろし、クッションを膝に乗せる。湯気の立つマグカップを両手で包むと、朝の光が足元まで伸びてきて、靴下の先をあたためてくれた。
窓の外では、遠くの電線にとまった鳥が、のんびりと羽づくろいをしている。道路をゆく自転車のベルが一度だけ鳴って、すぐに静けさが戻る。町がゆっくりと目を覚ましていく、その途中の時間。
この時間が、一日のなかでいちばん好きかもしれない、とふと思った。
何かを頑張る前の、何者にもならなくていい数分間。メールの通知も、今日の予定も、まだ遠くにある。ただ光があって、コーヒーの香りがあって、膝の上に丸い猫がいる。
クッションの耳を、指先でそっとなでてみる。ふにゃり、とやわらかくへこんで、またゆっくり元に戻った。その手触りが妙におかしくて、思わず小さく笑ってしまう。
本物の猫を飼うことは、今の暮らしではむずかしい。けれど、こうして朝の光のなかで猫のかたちをしたものを抱いていると、心の中の力がふっとほどけていくのがわかる。猫が好きな人なら、きっとわかってくれると思う。
そのうち、光はゆっくりと角度を変えて、クッションの顔をまっすぐに照らした。刺繍の目が、さっきよりも少しだけ笑っているように見える。
「今日も、ぼちぼちいこうか」
そう呟いて、マグカップに口をつける。
一日の始まりに、大きな決意はいらない。ただ、やさしい光と、手のなかのぬくもりがあれば、それで十分なのだと思う。
やがてアラームが、遠くの部屋で鳴り始めた。
私はクッションをそっとソファの端に戻して、ひとつ伸びをする。猫は、光のなかで変わらず眠たそうに目を細めていた。
行ってきます、と心のなかで言って、私は新しい一日のほうへ歩き出した。
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