バスを降りたとき、空気がひとつ冷たくなっていることに気づきました。
夏の終わりまでは、夕方でもまとわりつくような熱が残っていたのに、今日の風はさらりとして、頬のあたりだけをそっと撫でていきます。肩にかけていた上着を羽織りながら、わたしは小さな展望台へ続く坂道をゆっくり上りました。
道の両脇では、ススキが穂を揺らしています。傾きかけた光を受けて、その穂先が銀色に透けていました。足もとでは、乾いた落ち葉がかさりと鳴ります。その音を聞くだけで、胸の奥にたまっていた息が少しほどけていく気がしました。
展望台のベンチには、先に来ていた老夫婦が並んで座っていました。わたしと目が合うと、おばあさんが小さく会釈をして、「いい時間に来ましたね」と笑いました。
その言葉の意味は、顔を上げてすぐにわかりました。
遠くまで重なり合う山並みが、夕日に染まっていたのです。
いちばん手前の山は、深い緑に、ほんのり橙が混ざった色。その奥の山は、少し紅を帯びた柿色。さらに奥は、淡い紫がかった影になって、空との境目がやわらかく溶けています。山の重なりごとに色が違って、まるで誰かが一枚ずつ、薄い布を重ねたようでした。
空の高いところには、うろこ雲が広がっています。雲の縁が金色に縁取られ、その下では、太陽がゆっくり、ゆっくりと稜線へ近づいていきました。
誰も、何も話しません。
それでも、気まずい沈黙ではありませんでした。同じ景色を見ているだけで、言葉がなくても、同じ静けさを分け合っているような気持ちになります。
今日は、うまくいかないことが重なった一日でした。急いでいたのに電車が遅れ、返信しなければいけないメッセージは後回しになり、ふとした一言を気にして、ひとりで考え込んでしまったりもしました。
けれど、この山並みの前に立つと、そうしたことが少しだけ遠くに見えます。
山は、わたしの一日がどんなものだったかなど知りません。ただ毎日、同じ場所で、季節ごとに違う色をまとって、そこにいるだけ。その変わらなさが、いまはとてもありがたく感じられました。
太陽が稜線に触れた瞬間、山並みの色がもう一段、深くなりました。橙は赤みを増し、紫は群青に近づいていきます。風が通り抜けると、ススキがさわさわと音を立て、遠くでカラスが一声だけ鳴きました。
「秋の夕日は、短いからいいのよね」
隣のおばあさんが、ひとりごとのように言いました。
「ずっと見ていられないから、見ているあいだ、ちゃんと見ようって思えるでしょう」
その言葉に、わたしは静かにうなずきました。
ちゃんと見る。
忙しい毎日のなかで、そんな時間をどれだけ持てていたでしょう。スマートフォンの画面ではなく、遠くの空や、風の匂いや、色が移ろっていくさまを。
やがて太陽は山の向こうへ沈み、空には淡いピンクと藍色のグラデーションだけが残りました。山並みは、黒に近い影絵のようになり、その輪郭だけが、空の色の上にくっきりと浮かんでいます。
老夫婦はゆっくり立ち上がり、「気をつけてお帰りなさい」とわたしに声をかけて、坂道を下りていきました。
ひとり残ったベンチで、わたしはもう少しだけ、空を眺めていました。
帰り道、ポケットの中のスマートフォンは、さっきより少しだけ軽く感じました。
忙しい日が続くと、景色を眺める時間はつい後回しになってしまいます。でも、夕日が山の端に沈むまでのほんの十数分、ただ空を見上げるだけで、心がふっと緩む瞬間があります。
遠くへ出かけられない日は、窓辺から空を眺めるだけでも十分です。今日の夕方、少しだけ顔を上げて、空の色を探してみませんか。あなたの一日の終わりが、やさしい色で包まれますように。
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