夜と朝のあいだには、ほんの短い時間がある。
空はまだ群青色で、東の端だけが薄く白んでいる。鳥たちも目を覚ます前の、世界がまだ息をひそめている時間。私はいつもより少し早く目が覚めて、羽織をひとつ肩にかけ、縁側の戸をそっと開けた。
ひんやりとした空気が、頬をなでていく。
庭は、しんと静まりかえっていた。けれど、よく耳をすませてみると、静けさの中に小さな音が隠れている。
ぽつ。
ぽつん。
南天の葉の先から、ひとつぶの朝露が落ちた。石灯籠の足もとの苔に吸いこまれて、音はすぐに消えていく。
ぽつ、ぽつ、と間をおいて、また別の場所からも聞こえてくる。ひとつとして同じ間隔はない。誰かが静かに拍子をとっているようで、私は縁側に腰をおろしたまま、しばらく動けなくなった。
葉の上の小さな宇宙
目が慣れてくると、庭の輪郭がゆっくりと浮かびあがってきた。
ほたるぶくろの大きな葉には、朝露が丸く並んでいる。そのひとつひとつが、うっすらと明けていく空を映していた。指先ほどの小さな玉の中に、ちゃんと空がある。
蜘蛛の巣には、細い糸に沿って露が連なっていた。真珠の首飾りのようで、風がわずかに揺れるたび、きらりと光が走る。
萩の枝はしっとりと重たげにしなり、赤紫の小さな花びらも濡れて色を深めていた。シダの葉の裏では、露がゆっくりとふくらみ、こらえきれなくなった瞬間に、すうっと落ちていく。
その落ちる一瞬を、私は息をとめて見つめていた。
水の音、土の匂い
朝の庭には、音のほかに匂いがある。
湿った土のやわらかな匂い。濡れた苔の青い匂い。どこかで咲いている金木犀が、ほんのり甘く、風に混じって届く。
深く息を吸うと、胸の奥のほうまで、冷たくて澄んだ空気がすっと入ってきた。昨日までの慌ただしさや、頭の中にたまっていた言葉にならないもやもやが、吐く息といっしょにほどけていく気がした。
ひさしぶりに、何も考えない時間だった。
スマートフォンは部屋に置いてきた。予定も、返信も、今はどこにもない。あるのは、露の落ちる音と、ゆっくり明るくなっていく庭だけ。
光がさしこむ
やがて、東の空が淡い金色に染まりはじめた。
最初の光が、塀の上をすべるようにして庭に届く。すると、いままで静かに濡れていた葉の露が、いっせいに輝きだした。
ひとつ、またひとつ。
小さな光の粒が、庭じゅうに灯っていく。まるで夜のあいだにこっそり星がおりてきて、葉の上で朝を待っていたみたいに。
その光の中を、一羽の雀がぴょんと横切った。羽をふるわせて水滴を散らし、きらきらとしぶきが舞う。そこへ、遠くのほうから別の鳥の声が重なって、庭はだんだんと、朝の音で満たされていった。
ぽつ、という露の音は、鳥のさえずりの下に、そっと溶けていく。
何もしない贅沢
湯呑みにお茶をいれて、縁側に戻った。
湯気がふわりと立ちのぼり、朝の光にほどけていく。両手で包むと、じんわりとあたたかい。ひとくち含むと、渋みのあとに、やわらかな甘さが広がった。
特別なことは何もしていない。ただ庭を眺めて、お茶を飲んで、露の音をきいているだけ。
けれど、こういう時間こそが、いちばんの贅沢なのかもしれないと思った。
忙しい毎日の中では、つい「何かをしなければ」と考えてしまう。もっと頑張らなければ、もっと役に立たなければ、と。でも、朝露は何も頑張っていない。ただ夜の冷えのなかで生まれて、光があたれば、静かに消えていくだけ。それでも、あんなに美しい。
そう思ったら、肩の力がふっと抜けた。
庭がくれるもの
太陽が高くなるにつれて、葉の上の露は少しずつ小さくなり、やがて見えなくなっていった。あの宝石のような輝きは、ほんのひとときのもの。
だからこそ、出会えた朝は特別なのだと思う。
大きな庭でなくていい。ベランダの小さな鉢植えでも、玄関先のひとかけらの緑でも、近所の公園の木陰でもいい。早起きした朝に、ほんの数分だけ外に出て、葉の先を見つめてみてほしい。そこには、きっとあなただけが見つけられる、小さな光と、小さな音がある。
ぽつ。
ぽつん。
耳をすませば、世界はまだ、こんなにも静かでやさしい。
あなたの一日が、朝露のようにすきとおった気持ちで始まりますように。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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