まだ夜の名残が空に溶け残っている時間に、私は家を出た。
玄関の戸を閉めると、ひやりとした空気が頬に触れた。つい先週までは薄い上着一枚で足りていたのに、季節は人が気づかないうちに、静かに歩を進めている。吐く息はまだ白くならない。それでも、肺の奥まで澄んだ冷たさが入ってくるのがわかった。
駅までの道は、しんとしていた。
街灯がぽつりぽつりと、まだ灯っている。その光のまわりだけ、霧の粒が小さく浮かんで見えた。夜と朝のあいだにだけ現れる、薄い布のようなものが、町全体にそっとかかっている。
いつもは通り過ぎるだけの道端の草にも、露がびっしりとついていた。ひとつひとつが街灯の光を抱えて、小さな星みたいに光っている。しゃがんで眺めていたら、電車の時間を忘れそうになった。
駅のホームには、数えるほどの人影しかなかった。
ベンチに腰かけた作業着の男性は、缶コーヒーを両手で包んでいる。少し離れた場所では、大きなリュックを背負った学生さんが、うとうとと船を漕いでいた。誰も話さない。けれど、不思議と寂しくはなかった。同じ静けさを分け合っている人たちの、やわらかな連帯感があった。
線路の向こうは、霧で白く煙っていた。
遠くの山の輪郭はにじんで、空との境目がわからない。水彩画に水を一滴落としたような景色だ。その白い向こうから、やがてかすかな音が近づいてきた。
ゴトン、ゴトン、と、低くゆっくりした響き。
霧の中に、二つの灯りがぼんやりと浮かんだ。始発電車だ。
ホームに滑り込んできた車両は、朝霧をまとって、しっとりと濡れていた。ドアが開くと、中から暖房のぬるい空気がふわりと流れ出す。その匂いは、少し埃っぽくて、どこか懐かしい。
私は一番端の席に座った。
座席はほんのり温かかった。ひとつ先の駅から、ずっと走ってきてくれたのだろう。誰もいない車内を、律儀に暖めながら。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
窓の外では、霧が流れていった。田んぼの稲株、柿の木、古い農家の屋根。そのどれもが、白いヴェールの向こうで、輪郭だけをそっと見せている。柿の実の橙色だけが、霧の中でぽっと灯るように鮮やかだった。
川を渡るとき、霧は一段と濃くなった。
水面から立ちのぼった白い息が、橋のまわりをゆらゆらと漂っている。電車は、まるで雲の中を渡っていくようだった。ガタンゴトンという規則正しい揺れが、眠気を連れてくる。
隣の車両で、誰かが小さく咳をした。それさえも、この静けさの一部になる。
ふと、東の空が淡く色づきはじめた。
藍色が薄れて、その裾にほんのりと桃色が滲む。霧の白がそれを受けとめて、世界全体がやわらかな薔薇色に染まっていく。さっきまで灰色だった景色が、ゆっくりと息を吹き返していくようだった。
こんなに美しい時間が、毎朝、誰にも見られないまま過ぎていたのか。
そう思うと、少しだけ胸が熱くなった。
忙しい日々の中で、私たちは「早く着くこと」ばかりを考えてしまう。けれど始発電車の窓辺には、急がなくていい時間が、たしかに流れていた。
やがて霧は、朝日に透けて、ほどけるように薄れていった。
光の粒が窓に差し込み、座席の上に、小さな四角い日だまりをつくる。私はその中に手をかざしてみた。指先が、じんわりと温かい。
次の駅で、数人の乗客が静かに乗り込んできた。
世界が、少しずつ目を覚ましていく。
それでも私の胸の中には、あの白い静けさが、まだ残っていた。
秋の朝霧は、一日のうちほんの短い時間しか見られない。けれど、その短さがあるから、美しいのだと思う。
もし最近、心がざわざわして落ち着かないなら、いつもより少しだけ早起きをして、始発電車に乗ってみてほしい。どこかへ行く必要はない。窓の外を、ただ眺めているだけでいい。
霧の向こうには、きっと、あなたの心をやさしくほどいてくれる景色がある。
電車は今日も、白い朝の中を、ゆっくりと走っていく。
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