午後の光が、畳の端までゆっくりと伸びてくる時間だった。
縁側に近い部屋の隅に、麻縄を巻いた爪とぎが置いてある。買ったばかりのころは、縄の色もまだ明るく、ほのかに草の匂いがした。いまは角のあたりがやわらかくほつれて、毛羽立った繊維が日差しの中で金色に光っている。
その前に、黒猫のクロが座っていた。
クロは急がない。爪とぎの前にちょこんと座って、まず鼻先を近づける。昨日の自分の匂いを確かめるように、すん、すん、と小さく息を吸う。それから前足をそっと麻縄にのせて、ひと呼吸だけ目を閉じる。
しゃり、しゃり、しゃり。
乾いた、やさしい音が部屋に広がった。
爪が縄に引っかかって、ほどけて、また引っかかる。その音は、遠くで誰かが静かに竹箒を使っているようにも、秋の枯れ葉を踏んでいるようにも聞こえる。耳をすませているうちに、こちらの肩まで少しずつ力が抜けていく。
黒い背中がぐうっと伸びる。しっぽの先までまっすぐになって、後ろ足がつま先立ちになる。大きく伸びた体は、窓からの光を受けて、黒というより深い藍色に見えた。毛並みのひとすじひとすじに、午後の色が溶けている。
ひとしきり爪を研ぐと、クロは満足そうに前足を下ろし、くるりとこちらを振り向いた。金色の目が、まるで「どう? 上手でしょう」と言っているみたいだ。
「うん、上手だね」
声をかけると、クロは返事のかわりに、短くのどを鳴らした。
爪とぎは、ただ爪を研ぐためだけのものではないのだと思う。猫にとっては、体を伸ばして、気持ちを整えて、「ここは自分の場所だ」と確かめるための、小さな儀式なのかもしれない。
だから、あのしゃりしゃりという音がする部屋は、きっとその子にとって、安心できる場所なのだ。
そう思うと、少しすり減った麻縄も、ほつれた角も、なんだか愛おしく見えてくる。新品のきれいな姿より、毎日ていねいに使われてきた形のほうが、ずっとあたたかい。
クロはやがて、爪とぎのすぐ隣で丸くなった。ちょうど日だまりの真ん中に、黒いまんじゅうのような背中が浮かぶ。お腹がゆっくり上下して、呼吸のリズムが、部屋の静けさに溶けていく。
外では、風がひとつ、庭の木を揺らした。
窓ガラスの向こうで葉が舞い、光の粒がちらちらとこぼれる。そのたびに、クロの耳が小さくぴくりと動いて、また静かに戻る。
急ぐ必要のない午後。
誰にも見られていなくても、ちゃんと整っていく時間。
麻縄の匂いと、日だまりのぬくもりと、黒猫の寝息。それだけで、今日という日は、もう十分にやさしかった。
しゃり、という音がもう一度だけ、夢の中のクロの前足から聞こえた気がした。
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