仕事から帰ってきた夜、机の上に小さなスマホスタンドを置いた。
木の温もりが残る、手のひらほどの小さなスタンドだ。朝の慌ただしさの中でスマホを立てかける場所がなく、ついベッドの上に放り出してしまう。そんな毎日をやめたくて、少しだけいいものを選んでみた。
カタン、と静かな音を立てて、スマホはスタンドに収まった。画面の明かりが、部屋の薄暗がりにぽっと灯る。
それを一番に見つけたのは、うちの黒猫だった。
ソファの端で丸くなっていたはずの彼女は、いつのまにか机のそばに来ていた。しなやかな尾をゆらりと揺らし、金色の瞳でじっとスタンドを見上げている。
「気になるの?」
声をかけても、返事はない。かわりに、ひげがぴくりと動いた。
黒猫は椅子の脚をつたって、音もなく机の上へ上がってきた。足の運びはいつも静かで、どこか舞台に立つ役者のようだ。スマホとスタンドの前までくると、ちょこんと座って、まるで画面を鑑賞するみたいに背筋を伸ばした。
画面には、休みの日に撮った海の写真が流れていた。穏やかな波の音が聞こえてきそうな、夕暮れの青い海。
黒猫は、その光をじっと見つめている。瞳の奥に、小さな海が映っていた。
私は椅子に座って、その横顔を眺めた。
一日の終わりに、こんなふうに何もしない時間があっただろうか。スマホはいつも手に握りしめているものだった。通知を確認して、返信をして、画面をスクロールして。気づけば夜が更けていた。
けれど、こうしてスタンドに立てかけてみると、スマホはただの「光る小さな窓」になる。握らなくていい。急がなくていい。ただそこにあって、静かに景色を映してくれる。
黒猫がゆっくりと瞬きをした。猫の瞬きは「安心している」の合図だと、どこかで聞いたことがある。
私も、真似してゆっくりと瞬きをしてみた。
すると彼女は、満足そうに目を細めて、スタンドの足もとに体を寄せた。ふわふわとした黒い毛並みが、木の色とやわらかく重なる。画面の光が毛の先をほんのり縁取って、夜の中に小さな輪郭が浮かび上がった。
ああ、きれいだな、と思った。
何かすごいことが起きたわけじゃない。大きな事件も、特別なごちそうもない。ただ、小さなスタンドと、黒い猫と、静かな光があるだけ。
それだけで、今日の疲れがすこしずつほどけていくのがわかった。
「あなたも、ここが気に入った?」
黒猫は答えるかわりに、のどをゴロゴロと鳴らした。低くて、やさしくて、部屋の空気ごと包み込むような音だった。
窓の外では、秋の虫が小さく鳴いている。机の上では、スマホの画面がゆっくりと次の写真に切り替わる。木漏れ日の道、湯気の立つマグカップ、庭の隅に咲いた小さな花。
どれも、なんでもない日の記憶だ。でも、こうして並べてみると、なんでもない日ほど愛おしく見えてくる。
黒猫はいつのまにか、スタンドのそばで丸くなって眠っていた。
規則正しい寝息。上下する背中。画面の光に照らされて、まるで小さな夜空のような毛並み。
私はそっとスマホの明るさを落とした。起こさないように、静かに、静かに。
スマホスタンドひとつで、夜の過ごし方が変わった。握りしめる時間が減って、眺める時間が増えた。そして、そのとなりにはいつも、気になって仕方がない様子の黒猫がいる。
便利なものは、ときどき私たちを急がせる。けれど、置き方をほんの少し変えるだけで、同じものがやさしい居場所になることもある。
今夜も机の上には、小さなスタンドと、小さな光と、小さな黒猫。
それだけで、部屋はじゅうぶんにあたたかい。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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