夜の九時を過ぎると、部屋の音が少しずつ小さくなっていく。
洗い物を終えて、タオルで手を拭いて、私はベランダに続く窓を静かに開けた。ひんやりした秋の空気が、頬をすっとなでていく。昼間の慌ただしさが、その冷たさに少しだけ溶けていった気がした。
見上げると、空には星がちらばっていた。
大きく輝く星もあれば、目をこらさないと見えないほど小さな星もある。東京の空だから、満天の星とはいかない。それでも、じっと見つめていると、ひとつ、またひとつと光が増えていく。人の目というのは不思議なもので、焦らず待つほど、見える世界が広がっていくのだ。
「今日は、ここまでにしよう」
そう心の中でつぶやいて、私は部屋に戻った。
机の上には、小さなガラスの容器に入ったアロマキャンドルが置いてある。先週、雑貨屋さんでなんとなく選んだものだ。香りはラベンダーとほんの少しのバニラ。箱を開けたとき、ふわりと広がった甘くやさしい匂いに、思わず肩の力が抜けたのを覚えている。
マッチを擦る。しゅっ、という短い音のあと、小さな炎が生まれた。
橙色の光が、ゆらゆらと揺れる。部屋の照明を落とすと、その光だけが壁にやわらかな影をつくった。炎は風もないのに、ときどきふっと細くなって、またふくらむ。まるで呼吸をしているみたいだ。
しばらくすると、ラベンダーの香りがゆっくりと部屋に満ちてきた。
強すぎない、控えめな香り。吸い込むたびに、胸の奥にたまっていたものが、ひとつずつほどけていく。今日あった小さな失敗も、返せなかったメッセージも、明日の予定も。全部が遠くのほうへ、静かに下がっていった。
私はクッションを抱えて、窓際に座った。
カーテンを少しだけ開けておくと、ガラスの向こうに星が見える。手前には、キャンドルの炎が窓に映りこんでいた。空の星と、部屋の小さな灯り。ふたつの光が重なって、まるで星のひとつが部屋の中に降りてきたようだった。
ずっと昔、まだ子どもだったころ。
田舎の祖父の家に泊まった夏の夜、縁側で星を見せてもらったことがある。「あの星はな、何万年も前の光なんだぞ」と祖父は言った。当時の私には、そんな遠い話はよくわからなかった。ただ、祖父の隣で飲んだ冷たい麦茶の味と、蚊取り線香の匂いだけが、いまでも鮮やかに残っている。
大人になって気づく。あのとき私が覚えていたのは、星そのものよりも、星を見上げていた「時間」だったのかもしれない。
急がなくていい時間。
何も生み出さなくていい時間。
ただそこにいるだけで、許されている時間。
アロマキャンドルの炎は、少しずつ背を低くしていく。ろうが溶けて、小さな池のように透明になっていくのを、私はぼんやりと眺めた。
「きれいだな」
声に出してみると、思ったよりも自然に口からこぼれた。誰に聞かせるわけでもない、ひとりごと。けれど、その言葉が部屋の空気にとけていくのが心地よかった。
窓の外では、さっきよりも星が増えている。
ひとつの星が、すうっと瞬いた。
まぶたが少しずつ重くなってくる。炎のゆらぎを見つめていると、考えごとが丸くなって、どこかへ転がっていくようだ。
最後にもう一度、夜空を見上げた。
そして、キャンドルの火をそっと吹き消した。
ふわりと白い煙が立ちのぼり、甘い香りが一瞬だけ濃くなる。暗闇の中で、窓の外の星だけが、変わらずに光っていた。
あとがき
忙しい毎日の中で、「何もしない時間」をつくるのは意外と難しいものです。
でも、星空を見上げて、小さな灯りをともすだけで、心は驚くほど静かになります。高価なものも、特別な場所もいりません。ベランダの窓と、小さなキャンドルがひとつあれば十分です。
今夜はスマホを少し遠くに置いて、照明を落として、ゆらゆら揺れる炎と星を眺めてみませんか。
あなたの夜が、やさしい香りとやさしい光で、ゆっくりほどけていきますように。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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